衣装にまでこだわる演奏家による知られざるクラヴサン音楽の探求ジョラージュ: クラヴサン曲集第1巻フェルナンド・デ・ルーカ (チェンバロ)フランス・バロック後期の音楽家、シャルル=アレクサンドル・ジョラージュは、波乱万丈の亡命ポーランド王に仕えていたことでも知られていますが、まとまった録音は無かったので、今回、世界で初めてジョラージュ作品で唯一現存するクラヴサン曲集が全曲録音されたのは朗報です。演奏のフェルナンド・デ・ルーカは、衣装にまでこだわる古楽器演奏家で、これまで、クリストフ・モワロー: クラヴサン曲全集(7CD)、クリストフ・グラウプナー: チェンバロ曲全集(14CD)、ニコラ・シレ: クラヴサン曲集(1CD)、ヘンデル: ベルガモ写本チェンバロ曲集(1CD)というマニアックな曲集で高い評価を得ています。▶ Brilliant Classics 検索 ジョラージュ情報シャルル=アレクサンドル・ジョラージュは1700年頃に生まれたと推測されており、1723年にパリでニコル・ブルーと結婚し1752年11月19日に死別、1761年4月6日にパリで亡くなっています。 「元ポーランド王のオルガニスト」と称していたジョラージュの仕えたポーランド王とは、1718年にアルザス、ヴィサンブールに移住していた元ポーランド王スタニスワフ1世レシチニスキ[1677-1766]のことで、スタニスワフ1世はその7年後の1925年に娘をルイ15世に嫁がせてロワールのシャンボール城に移り住み、1733年にポーランド王、アウグスト2世が亡くなるまで滞在していました。 ジョラージュがスタニスワフ1世に仕えた時期は、1718年から1733年までのどこかの時期ということになると考えられますが、当時の文書にフランスの作曲家ルイ・オメ[1691-1777]が、シャンボール城時代のスタニスワフ1世の音楽監督として雇われていたという記載があるということなので、1733年にスタニスワフ1世がポーランド王に復位 (翌年に失脚)するまでそこで働いていたのかもしれません。 1733年、ジョラージュはパリに定住して、おそらくクラヴサン教師として活動し、1738年にはクラヴサン曲集を出版してクレルモン・ダンボワーズ侯爵夫人に献呈しています。 1755年、ジョラージュはパリのノートルダム大聖堂の4人のオルガニストの1人に任命され、以後、1761年に亡くなるまでオルガニストとしてパリで生活しています。 下の画像は元ポーランド王スタニスワフ1世レシチニスキ。 作品情報ジョラージュのチェンバロ作品集「第1集」は、その後第2集が出版されることはありませんでしたが、その優雅で洗練されたスタイル、明確でバランスのとれた構造、繊細な装飾や和声の使用は魅力的で、18世紀前半のフランスで主流だった趣味ばかりでなく、随所に独創的なタッチも盛り込まれており、第1組曲の最後を飾る「イタリア人」では、ドメニコ・スカルラッティやハイドンのソナタに通じるスタイルが示されてもいます。 演奏者情報フェルナンド・デ・ルーカ (チェンバロ)1961年、ローマで誕生。9歳の時にはすでにバロックのイディオムで作曲をおこなっていたというデ・ルーカは、14歳でローマ・サンタ・チェチーリア音楽院に入学し、オルガンとピアノなどを勉強。続いて、ヴァティカンのシスティーナ礼拝堂のマエストロ・ディ・カペラであるドメニコ・バルトルッチに弟子入りして宗教音楽と対位法、即興演奏、作曲を学び、1992年にはチェンバロをパオラ・ベルナルディに師事。 その間、1989年には、17世紀後半から18世紀初頭のイタリア音楽を専門とする音楽アンサンブル「Et in Arcadia Ego」を設立するなど、ソリスト、アンサンブル奏者として活動し、最近ではバロック風の衣装で演奏してもいます。 CDは、Brilliant Classics、Uraniaなどから発売。 トラック・リスト、収Powered by HMV