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マルチヌー:チェロ協奏曲第1番、プロコフィエフ:チェロ協奏曲第1番、他シュタルケル、ネルソン&チェコ放送響、ジュスキント&フィルハーモニア管シュタルケルの技巧が光る20世紀チェロ協奏曲集2013年に89歳の生涯を終えたハンガリー出身の名チェロ奏者ヤーノシュ・シュタルケル。彼の録音のなかから、20世紀のチェロ協奏曲を集めた好企画。有名な作曲家の作品ながら、意外に聴く機会のない3篇なのも大歓迎。 マルチヌーのチェロ協奏曲第1番は1930年の初版が小管弦楽で、1939年に大管弦楽に直し、さらに晩年大改訂を加えました。ここではその最終稿を聴くことができます。 プロコフィエフはピアノやヴァイオリンの協奏曲が人気なのに比べ、チェロ協奏曲はあまり馴染みがありません。第1番はソ連帰国後1938年の作で、『ピーターと狼』やバレエ音楽『ロメオとジュリエット』と同時期のもの。しかし独奏部の異常な難しさと西欧的感覚が不評で、いわば封印された作品となり、晩年に『交響的協奏曲』へ改作しました。シュタルケルは貴重なオリジナル稿で演奏。切れ味満点で、プロコフィエフならではのスリリングな音楽に興奮させられます。 シュタルケルの同胞エルンスト・フォン・ドホナーニ初期のコンツェルトシュテュックも聴きもの。ドホナーニのメロディ・メイカーとしての才の光る作品で、どことなくリヒャルト・シュトラウスのオペラを思わせます。これもシュタルケルがとびきりの美しさで奏でています。(キングインターナショナル)【プロフィール】ヤーノシュ・シュタルケルは、1924年7月5日、ポーランド系の父とウクライナ移民の母の元にブダペストに誕生。二人の兄はヴァイオリンを学んでいましたが、ヤーノシュは幼い頃からチェロを弾き、ブダペスト音楽院に入学、アドルフ・シファーとレオ・ヴェイネルに師事、11歳でリサイタル・デビューし、翌年には海外公演もおこなっており、さらに、14歳の時には、わずか3時間の練習で代役としてドヴォルザークのチェロ協奏曲に出演してコンサート・デビューも果たすほどの天才ぶりでした。 しかし、シュタルケルはユダヤ系だったため、1939年にブダペスト音楽院を卒業すると、強制労働に従事させられ、大戦末期の3ヶ月間は両親と共に強制収容所にいました。その間、2人のヴァイオリニストの兄、ティボールとエーデは当時のドイツ政府によって殺されたと言われています。 戦争が終わると、シュタルケルは、ブダペスト歌劇場とブダペスト・フィルの首席チェロ奏者となりますが、翌年ソ連が侵攻してきたため、祖国を後にし、まずウィーンでコンサートを開いて成功を収めます。そして、ジュネーヴを経てパリに拠点を移し、コンサートやレコーディングに力を注ぎ、1948年、パシフィック・レーベルにコダーイの無伴奏チェロ組曲を録音、このレコードがディスク大賞を受賞すると名声が一躍高まります。 ほどなくアンタル・ドラティの招きもあってアメリカ移住を決意、まずダラス交響楽団の首席チェリストとなりますが、翌年にはフリッツ・ライナーの誘いを受けてメトロポリタン歌劇場の首席奏者に就任、その後、1953年にライナーがシカゴ響に移るとシュタルケルも一緒に動き、1958年に退団するまでライナーのもとで活躍します。 その間、1954年にはアメリカの市民権を得ており、1956年にはヨーロッパ公演も実施、1958年にはインディアナ大学の音楽学部教授に就任し、インディアナ州ブルーミントンに居を構え、長年にわたって演奏家活動と教育活動を並行しておこなってきました。 そのレコーディング総数は160を超えると言われ、卓越したテクニックと音楽性、優れた音質によって、世界的に高い評価を得たものが数多く含まれています。 レコーディングなどでの使用楽器は、1950年から1965年までは主に、「アイレスフォード卿」という名前で知られるストラディヴァリウス、1965年以降はゴフリラーを中心に使用していたようです。(HMV)【収録情報】● マルチヌー:チェロ協奏曲第1番(1955年第3版) チェコ放送交響楽団 ジョン・ネルソン(指揮) 録音時期:1990年3月19日 録音場所:プラハ(ライヴ)● プロコフィエフ:チェロ協奏曲第1番ホ短調 Op.58● E.V.ドホナーニ:コンツェルトシュテュック Op.12 フィルハーモニア管弦楽団 ワルター・ジュスキント(指揮) 録音時期:1956年7月14-16日 録音場所:ロンドン(セッション/EMI) ヤーノシュ・シPowered by HMV
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