イギリス室内楽のギャラントなフルート傑作スタンリー:フルート・ソナタ全集(2CD)ダオルサ・デルヴィーシ (バロック・フルート)アレッシア・トラヴァリーニ (ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェロ)ニコラ・ビゾッティ (チェンバロ)2歳の時に事故で失明したスタンリーは、9歳で教会でオルガンを弾くようになり、11歳で教会オルガニスト職を得ていたほか、17歳でオックスフォード大学の音楽学士号を史上最年少で取得。22歳でインナー・テンプルのオルガニストに就任し、以後、亡くなるまで52年間に渡って在職。スタンリーは指揮や作曲にも多くの時間を充てられるようになり、バロック期、古典派期を通じて音楽の大都市であったロンドンで室内楽需要が増していたことから、20代後半から30代前半にはフルート・ソナタも作曲。ギャラント様式の名曲を生み出しています。▶ Brilliant Classics 検索 作曲家情報◆ ジョン・スタンリー[1712- 1786]スタンリーは22歳から74歳までの52年間、インナー・テンプル教会のオルガニストを務めていましたが、そこにはヘンデルなど多くの音楽家が集まってきてスタンリーと交流したため、スタンリーの仕事の幅が広がることにも繋がりました。 以下、時系列となります。1712年1月17日、ロンドンに誕生。1712年2歳。自宅で陶器の洗面器を持ったまま大理石の炉床に転倒して重傷を負いほぼ視力を失います。1719年7歳。音楽の勉強を開始。セント・ポール大聖堂のオルガニストで作曲家でもあったモーリス・グリーンからオルガン演奏と作曲の指導を受けます1721年9歳。ブレッド・ストリートのオール・ハローズ教会でオルガンを演奏。1723年11歳。年俸20ポンドでオール・ハローズ教会のオルガニストに任命。1726年14歳。セント・アンドリュー・ホルボーン教会のオルガニストに多くの候補者の中から選出。1729年17歳。オックスフォード大学の音楽学士号を史上最年少で取得。1734年22歳。インナー・テンプル教会のオルガニストに任命され、1786年に亡くなるまで52年間在職。1738年26歳。サラ・アーロンドと結婚。サラは東インド会社のエドワード・アーロンド大尉の娘で、結婚持参金は年7,000ポンド。サラの妹アンは一緒に住んで、写譜をおこなってくれたほか、暗譜の手伝いもしてくれました。1740年28歳。フルートと通奏低音のための8つの独奏曲 Op.1を作曲。1742年30歳。6つのカンタータ Op.3を作曲。1745年33歳。フルートと通奏低音のための8つの独奏曲 Op.4を作曲。1748年36歳。オルガンまたはチェンバロのためヴォランタリー Op.5を作曲。1751年39歳。6つのカンタータ Op.8、3つのカンタータ Op.9を作曲。1752年40歳。オルガンまたはチェンバロのためヴォランタリー Op.6を作曲。1754年42歳。オルガンまたはチェンバロのためヴォランタリー Op.7を作曲。1757年45歳。オラトリオ「イェフタ」Op.10、オルガンまたはチェンバロのための6つの協奏曲 Op.11を作曲。1759年47歳。ヘンデル死去。1760年48歳。作曲家ジョン・クリストファー・スミスとパートナーシップを結び、ヘンデルの後任としてコヴェント・ガーデンでの一連のオラトリオ公演を継続することが決定。スタンリーはすべてのオラトリオの伴奏を務め、休憩時間には協奏曲を演奏。また、スタンリー自身のオラトリオ「ジミリ」も上演。1762年50歳。国王の結婚を祝し、オラトリオ「アルカディア」Op.13を作曲。1770年58歳。捨子養育院礼拝堂の音楽監督に選出。捨子養育院礼拝堂は、ヘンデルが慈善演奏会で「メサイア」を11回上演し、オルガンも寄贈していた由緒ある演奏会場。1774年62歳。オラトリオ「エジプト陥落」Op.14を作曲。1775年63歳。捨子養育院礼拝堂で、同院基金のために「Powered by HMV