スペイン語による世俗カンタータ集〜ダストルガ、デ・セルケイラ、デ・トーレス作品集クリスティーナ・バヨン・アルバレス (S)、ノエリア・レベルテ・レシェ (gamba)、ディエゴ・レヴェリク (archlute)、フェデリコ・デル・ソルド (cem)バロック後期にスペイン語で演奏されていたソプラノ独唱による世俗カンタータを集めたアルバム。歌はマラガ大聖堂のイリバレンの書いたユニークな宗教音楽アルバムで表情豊かな歌唱を聴かせていたクリスティーナ・バヨン・アルバレス。イリバレンではフラメンコばりにカスタネットが鳴り響く曲もあったりしたのが記憶に新しいですが、その時の指揮とチェンバロは今回のレコーディングにも参加しているフェデリコ・デル・ソルドでした。▶ Brilliant Classics 検索 作品情報18世紀前半に活躍していたスペインゆかりの作曲家による愛と喪失の室内カンタータを収録。内訳は、ダストルガが約29分、デ・セルケイラが約6分、デ・トーレスが約23分。ダストルガはカール6世、デ・セルケイラはカルロス2世とフェリペ5世、デ・トーレスはフェリペ5世の治世と関係がありました。 作曲家情報ダストルガオペラの題材にもなった生涯有名な「スターバト・マーテル」のほか、150曲以上の室内カンタータなどを遺したバロック後期の作曲家、ダストルガの生涯は謎だらけですが、一部の出来事が注目を集めて尾ひれがつき、やがて空想まで交えた状態で語られてもきました。その最たるものがロマン派の作曲家、ヨハン・ヨーゼフ・アーベルト[1832-1915]の書いたドイツ語オペラ「アストルガ」[1866]で、精神を病んだアストルガが恋人の歌う「スターバト・マーテル」のおかげで正気になるという不思議な場面まであるということで驚きます。そしてそのオペラのウィーン上演の告知を意図したものなのか、ヨーゼフ・シュトラウスがポプリ「アストルガ」を書いていたのも驚きでした(その楽譜をウィーンで発見したのは日本ヨハン・シュトラウス協会理事の若宮由美氏)。スペイン継承戦争ではハプスブルク側現実のダストルガの生涯はオペラほど荒唐無稽なものではなく、21歳から34歳までの重要な時期に、欧州各地で「スペイン継承戦争」がおこなわれていたことを併せて考えるとわかりやすくなると考えられます。ダストルガが生涯に過ごした地域は、イタリアのほか、オーストリア、ポルトガル、イギリスなど反ブルボン側であり、これはイタリア人ゆえに帰属先がブルボン側(スペインとフランス)ではなかったことが要因でしょう。スペイン系のシチリア貴族ダストルガの本名は、エマヌエーレ・ジョアッキーノ・チェーザレ・リンコン・バローネ・ダストルガという長いもので、1680年3月20日に、スペイン・ハプスブルク朝の統治するシチリア島で誕生しています。生地はシチリア島南東部のアウグスタ、生家はスペイン系のシチリア人一族で、曽祖父の代からアウグスタのオリアストロ、ミライナ、モルティレット地区を領有する男爵となったシチリア貴族でもありました。ダストルガはスペイン継承戦争の13年間は反ブルボン側地域で活動していましたが、スペイン・ハプスブルク朝の統治下で生まれ育っていたので、ヴェルサイユ生まれのフェリペ5世によるスペイン・ブルボン朝には抵抗があったということかもしれません。大地震でパレルモに転居ダストルガが13歳の1693年には、シチリア島南東部を「ヴァル・ディ・ノート大地震」が襲って6万人以上が亡くなり、生地アウグスタも半壊の状態となったため、ダストルガ家は、シチリア島北部の首都パレルモに転居しています。 同地では、パレルモ生まれのアレッサンドロ・スカルラッティ[1660-1725]の実弟のフランチェスコ・スカルラッティ[1666-1741]が1691年から1715年まで活躍しており、ダストルガは彼に師事したと考えられています。 1698年、18歳のときには、オペラ「敵の妻」を作曲していますが、これは貴族の私邸で上演されたもので、ダストルガ自身と兄弟をはじめ、出演者は全て貴族という内輪なものでした。スペイン継承戦争勃発Powered by HMV