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イタリアのルーツを持つウィーンの作曲家によるイタリア様式の復興フェルディナント・レーバイ:ヴァイオリンとギターのための作品全集(3CD)ピエルカルロ・サッコ(ヴァイオリン)アンドレア・ディエチ(ギター)20世紀前半に活動したフェルディナント・レーバイ[1880-1953]は、756曲に及ぶ作品を遺した伝統的な作風のウィーンの作曲家。著作権の切れた2004年以降に注目度が高まり、2009年からはCDリリースも開始、Brilliant Classicsではすでに5枚のギター関連アルバムを制作しています。  フェルディナント・レーバイは合唱指揮者として16年、ウィーン音学院教授として18年の実績もあり、ウィーン音楽院の同僚でギター科教授のヤーコプ・オルトナーから刺激を受けて多くのギター関連作品も書いています。  このアルバムは「ヴァイオリンとギターのための作品」を全曲集めたもので、2曲のソナタのほか、組曲や変奏曲、小品など盛りだくさんな内容。編曲作品も42分ほど収録されています。  演奏は、ジュリアーニのヴァイオリンとギターのための作品集と、ピアソラ「92丁目通り」、「カフェ1930」のアルバムでも快調なデュオを聴かせていたピエルカルロ・サッコとアンドレア・ディエチのイタリア人コンビによるものです。▶ Brilliant Classics 検索 作曲家情報◆ 1880 ウィーンの音楽家ファミリーに誕生1880年6月11日、ウィーンに誕生。同名の父フェルディナント・レーバイ[1851-1914]は、オーストリア帝国のガリツィアに生まれウィーンで歌手、ジングシュピール作曲家、音楽出版社「レーバイ&ロビチェク」の共同経営者として活動した人物で先祖はイタリア系。1879年8月9日にブルックナーの教え子でもあったピアニストのテレジア・マグダレーナ・フリードル[1857-?]と結婚し、翌年に長男フェルディナント(Junior)、1881年にシュテファニー、1887年にエミリーが誕生。◆ 1890 ハイリゲンクロイツ修道院1890年、10歳の時にウィーン近郊のハイリゲンクロイツ修道院の音楽学校に入学し、シュテファン・ファイファー神父とオルガン奏者のハンス・フィンクらの指導を受けて聖歌隊員となり、ソロ・アルト歌手も務め、1894年に卒業。◆ 1894 芸術産業博物館芸術工芸学校ウィーンに戻ったレーバイは、芸術産業博物館の芸術工芸学校に通いながら、1897年から1899年までヨーゼフ・フォン・ヴェス[1863-1943]に、1899年から1901年までオイゼビウス・マンディチェフスキ[1857-1929]に音楽の個人レッスンを受けています。◆ 1901 ウィーン楽友協会音楽院1901年、マンディチェフスキの勤務先でもある楽友協会音楽院(現ウィーン音楽・舞台芸術大学)に入学し、ロベルト・フックスらに師事。1904年の卒業制作「大管弦楽の為の魔王」について、フックスは29年間の任期中の最高の作品と絶賛。◆ 1904 ウィーン合唱協会の指揮者1904年、卒業後まもなくウィーン合唱協会の指揮者となり、第1次大戦によるオーストリア帝国崩壊を経て1920年まで在職。その間、1907年には教師のミヒャエラ・ヴァルトマンと結婚し、翌年には息子のアルフレートが誕生。1915年からは1920年まではウィーン・シューベルト協会の合唱指揮者も兼務し、両合唱団のための作品も数多く作曲。◆ 1921 ウィーン音楽・舞台芸術国立アカデミー1921年には、「音楽・舞台芸術国立アカデミー」と改名していた母校(現ウィーン音楽・舞台芸術大学)のピアノ科教授に就任。多くの学生を教え、1934年から1936年にかけての夏はザルツブルク音楽祭で「研究責任者」としても働いていましたが、1938年にオーストリアがナチス・ドイツに併合されると、妻ミヒャエラがユダヤ系だったため解雇。◆ 1945 ウィーン音楽・舞台芸術アカデミー終戦後の1945年、「音楽・舞台芸術アカデミー」と改名した母校(現ウィーン音楽・舞台芸術大学)に復職しますが、すでに65歳だったため翌1946年に定年退職。Powered by HMV
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