現代の高度化した競技スポーツにおいて、アスリートは専門的なトレーニングによって卓越したパフォーマンスを競い合うことで、結果としてもたらされる勝利や名誉、記録の価値を重要なものとしている。一方で、そのような結果に多大な利益が付加されるようになり、アスリートおよび関係者、組織の不正行為・倫理的逸脱が指摘され、勝利至上主義の弊害として問題化されている。このことは、アスリートをはじめとした実践主体に限ったものではなく、彼らを取り巻くサポーター、観客といった関係者のスポーツに対する価観の醸成にも深くかかわっている。さらに近年、スポーツ界における体罰・暴力行為や事故等が社会問題化され、その原因には根性論的な指導および実践が指摘されている。かつてわが国では、競技で優れた成績をあげるには「根性」が必要であるという「スポーツ根性論」が成立し、スポーツ界のみならず各方面に影響を及ぼしてきた。困難や苦しみに耐え抜いて努力する精神力のことをさし、現在ではスポーツはもちろん日常的に使用されている「根性」という言葉は、1964 年の東京オリンピックを重要な契機として流行し、以後の日本スポーツ界における有力なスポーツ価値観として定着している。本書では、この「スポーツ根性論」の成立と変容のプロセス、実践主体へ与えた影響を明確化することによって、現代日本のスポーツが抱えている問題の解決への道筋を探る。それはまた、わが国においてスポーツ実践を通じて編み上げられてきた思惟・思考の集積を明確にすることであり、そのことの「これまで」と「いま」を省察し、「これから」を見据えた指針を提示することでもある。はじめに序章:近代スポーツの「日本的」解釈1 日本のスポーツ受容のかたち2 「日本的スポーツ」の成立第1 章:スポーツにおける「根性」の成立1 「根性」の辞書的意味とその使用状況の変遷2 東京オリンピック(1964)に向けた選手養成・強化と「根性」3 スポーツにおける「根性」とは何か第2 章:ハード・トレーニングと勝利への意志 -大松博文と「東洋の魔女」1 「大松イズム」とは何か2 「東洋の魔女」の「大松イズム」受容3 スポーツにおける「根性」と「大松イズム」との関係第3 章:卓越・勝利の先にあるもの -円谷幸吉1 マラソンランナー・円谷幸吉の自死とその背景2 「円谷幸吉物語」の(再)生産3 スポーツにおける「根性」と円谷幸吉の自死の意味第4 章:〈スポーツ根性論〉の誕生1 1960 年代以降の社会における「根性」論の展開2 言説としての〈スポーツ根性論〉の成立3 「勝利至上主義」批判と〈スポーツ根性論〉結章:「スポーツに懸けること」の倫理おわりに